日記というもの

 公開してる日記というものは、不特定多数に読まれることを前提に書かれるもので、日記というものに書かれたことは、すなわちその人の行動の記録であるのか否かと考えるのだが、記述された情報というものは、記述する前にその人が認識していた事物や感情と全く同一にあるものではないというのは当然である。すなわち真実を描くことを言語によって実現できるのであろうか否かという問題に帰着することは、しごく当たり前の言説である。
 ならば日記に書かれていることは現実そのままである訳はなく、現実をどのように表現するかという問題に辿り着く訳だけど、ならば、いっそのこと全て嘘の日記であるということもあり得る。いや、日常感じている現実というものは、実はまやかしで、どこにも現実などというものはなく、日々感じる感情でさえも筆者による言語化によって記述されるのであるからして、現実そのままの日記というものはあり得ないのは当然である。
 ならば嘘の日記を綴るというのもある種の日記の方法として成立するのではないか。
 と考えたりした。
 考えたりした。
 考えるということは凝視することである。だがどうだ。凝視することによって、たとえば「書」という字をじっと見つめているとそれは「書」ではなく、まったく他の字のように見えてしまうことはないだろうか。字ではなく、何かの模様に近く感じられて、字が字ではない、ただの記号のように感じて、やがてそれらの記号はじわじわと踊りだす。
 遊が踊る。
 有が踊る。
 憂が踊る。
 Youが踊る。
 深夜、人が少なくなった駅前の路上で若い男女がダンスの練習をしている。
 彼らは商店のガラスに写った我が身を見ながら音楽に合わせて手を振り足を投げ出して踊る。
 ターンをする。首を回転させる。指を天に向かって差し伸ばす。髪を振り、肩をいからせ地面に膝を付き、踊る。街灯によって残像が描かれ稜線を震わし、まるで夢のように天使のように踊る。そうか。ダンスは詩だ。詩であり身体だ。
 そしてそれは言葉であり、日記なのだ。
 どこに現実があるのだろう。
 現実は街灯の明かりだ。そして残像が日記である。