遠く白く雪の日

 雪が降れば思い出す。あの冷たさぎゅっと踏みしめる足の感触。
 僕が子供の頃に育った街は雪がまるで降らない。一年に一度か二度、さっと通りすぎてしまっていつ降ったか忘れてしまうぐらいだった。だがその年は違った。
 丁度、高校受験の時期で、学校に行っても友人がぱらぱらと休んでいた時期だった。僕らは友人がいないので詰まらないなと思いながら、普段あまり一緒に昼食をとらない人間と細々と集まり、パンを頬張ったり食堂のうどんをずるずると食べたりしていた。お前、試験はいつだ? あさってだ。オレ、来週なんだ、とそれぞれの勉強のできなさを言い合ったら余計、淋しくなった。
 勉強なんてしてなんになる。大人たちを見ればわかることだと言いつつも、やはり自分に降りかかった人生の縮図に初めて不安を覚えていた。
 その日は朝から奇妙に寒い日だった。もう今更教えることもやることもないだらけた社会科の受業の中で、ゆるやかに午後の時間に入り睡魔がやってきた時間だった。教室の一番後ろにいた大空遥がすっとんきょうな声をあげた。
 雪ーー。
 クラスにいた20人足らずの人間が一斉に校庭に向かった窓に目をやり、静かにうねるような歓声が沸き起こった。教壇の足摺先生も生徒に注意しながらも校庭を見た。
 幾分高台にあった校舎からは土色の校庭が見え、木々がその周りにこんもりと見え、遠くに小さくなった街が見えた。僕らが育った街。その上に静かにはらはらと舞い落ちてゆく雪。静かにそして一面を白く染めてゆく雪。
 積るかなあ。積もったらいいのにね。いやだあ、オレ明日試験なんだよ。
 足摺先生は生徒を座らせ「丁度この時期に雪が降った日、2・26事件があった。何年の出来事か」と言い、遥を指さした。遥は長い髪をかき上げてつんとした表情で答え、また窓の外の景色に目を戻した。彼女は推薦で女子校に受かってたので、共学なら自分も同じ学校を受けたいと望む男子も多かったに違いないのだが、どこ吹く風、結局誰の交際も受けないまま遠い場所の女子校に進学することになっていた。僕は彼女の三つ前の席で、窓の側だったのでつられて向き直すと、二匹の黒い犬が前後に並んで校庭の真ん中を校舎の側から、遠くへ遠くへ向かって歩いて行くのが見えた。二匹の犬は寄り添うように、そして、だが、互いの距離を慎重に優しくはかるようにして、前後にゆっくりと歩いていた。それは親密でありながらどこか悲しい情景に見えた。
 振り向くと遥の目と合った。彼女は顎を軽く降って「犬見た?」と示した。僕がじっと犬に見とれているのが分かったらしい。僕はうなずいて軽く微笑み返して、再び目をやると、犬はどこにも居なかった。
 急に走っても姿が見えなくなるような時間があったのではなかった。誰かが追い立てたのでもなかった。忽然と犬が消えてしまった。驚いた僕が再び背後を振り向くと、遥は目を細めて笑った。

 その夜、積もった雪の中を自転車で走ってた遥は、急に曲がってきた自動車とぶつかって死んだ。きっとあたりどころが悪かったに違いない。彼女の自宅から50メートルの距離にある住宅地の狭い路地の出来事だった。

 今日は寒いね。
 うん。
 試験はいつ?
 ワタシは推薦で終わったよ。君は?
 今月の終わり。
 がんばってね。
 うん。がんばるよ。僕なりに。
 がんばれ。