だいぶ関係ない話になったから別枠で

「ひめごと雑文祭http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/3096/hime/index.html)」からもうかなり長い時間が経ってしまった気がします。
「雑文サイト、テキストサイトの凋落はバトルがなくなったせいだ!」(水野談)ということなのですが。確かに、雑文サイトやテキストサイトを目にするよりは、ブログ勢というか、(はてなもそうですね)ブログ系の日記サイトがかなり増えて、Web上のリソースの多くの部分でそうしたものを目にすることが多くなりました。
で、思ったのですが、かつては「インターネットのHPを作る」ということは、結構面倒で、やっかいなものだったんだけど、それが一般化されて、だれでも作れる(ブログならレンタルすればいいじゃん)みたいな形になって、敷居は浅くなったんだけど、実際はかつてサイトを運営するというポテンシャルを維持することができる層というのは、ある種エネルギッシュで創作意欲があった人が多かったんじゃないか?という感じがなんとなくしてきました。
というのは「ものを作って発表する」ということと、何かの「感想を述べる」というのはポテンシャルが全然違う。そのポテンシャルを維持し楽しむという感覚と、明らかにブログ以降のサイトとは隔たりがあるような気がします。もちろんブログでも大手はすごいエネルギッシュに活動をしてますし、一慨には言えないけど、簡単に言えば多くのサイトが「さるさる日記」化してしまったな、という感じがします。じゃなければ「雑誌記事」風の文章で紹介と少しの感想がつづられてゆくという形で、ぶっちゃけ雑誌と小説って違うよね!みたいな気がします。
たとえば、Folioに寄せられる意見として多くが「雑誌って書いてるけど雑誌じゃねーじゃん!」みたいなのですが、記事や企画に不備はあるとは思うのですが、それに目をつぶってみると、いわゆる「雑誌」形態なら、ブログで掲載されてるような、紹介記事や床屋談義が欲しいのか?という反論はあります。はっきり言えば、床屋談義なら、誰にでもできる。みんな偉そうだなあ。立派。立派。なんて言ってあげたくなりますが、それは置いておいて、なんていうか、「製造業」と「消費者」の対決みたいなものでしょうか?
消費者は金銭を媒介として、商品を買うわけですが、商品を一から作りますか? 作れないから買うわけで。消費者がそんなに偉いのかみたいな意見(あれ?これ、こないだどっかで読んだなあ)が製造者側にはあると思います。もちろん商品に万全を尽くすことは基本なのですが。
なんていうか、インターネットの世界も規制がかなり出来上がってきて、包囲網で閉ざされた世界の中で、奇妙な倫理性に包まれてきたような気がします。洗練ではなくて保守的な倫理観に。
でも、そんなのって面白くないよな、とも思う訳で、「殺伐雑文祭」には成功して貰いたいとも思う訳です。がんばれー。水野!