「<私>の愛国心」 香山リカ著 ちくま新書

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480061851/qid%3D1094486918/249-0013128-4716377
うーん、アマゾン、評価低いなあ。僕は結構この著者の視点はスルドイと思いました。香山リカ案外見逃してたなあ。
最近とみに話題になる「愛国心」なるものについて分析した文章なんだけど、何故「愛国心」なるものが隆盛するのかという分析をしてて、その根源を探すと「自分の周りのことにしか興味を持たない」ことの表裏一体なのではないかという分析。いちばん身近にあるものだけを必要とし愛してそれ以上の距離にあるものに対する興味と想像力が働かないのではないかという指摘。
未知の物事に対してどのように対処したり欲望したり想像したりするのかというのは、ひとつの「コード」で、そのコードを増やしてゆくということが意味の受容する回路を増やしてゆくということなのだろうと考えるからで、その想像力というのや理解力というものを「増やしてゆく」ということが、以前は「成長」と呼ばれていた。だけど、そうした「成長」という神話自体が意味を失い、物事は今、ここにある物事/事態/身体にとってその対象物がどのように存在してるのかという、束の間の意味とぶつかり合う一瞬の交差にしか、それぞれの出会いは存在してないのではないか。いや、そのようにしか物事を感じる事が出来ないのではないかということだろう。
何故「愛国」という言葉がよみがえってくるのか、というのは、そう発言する人自体にとって、自分は何故ここにいるのか、この世に存在してるのかという意味を見出せないから、自己を規定する外部の規則・法則を前提として考えざるを得ない。もちろんそこには、心理学の隆盛が過去にあったという歴史が存在することも忘れてはならないが、心の内側に救いを見出せなかった結果、外側から規定してゆく自己へ辿り着くのは合点がゆく。個人の不安や不全感がその根底にあるのは勃起不全も同じことではないか。他者に対する自己はどのように存在してるかということを、常に問わなければならず、その他者にとっての自己の存在をどのように規定することが出来るのか分からないため、ある種のコードによって、自己の欲望/想像力をコードの文脈に逆照射される形で認識せざるを得ない。
こないだからずっとこだわってた「萌え」ということも同様な文脈によって考えられる。「萌え」と発言することでその対象がエロス的な存在であると自己認識することは、あらかじめエロスが内在してたのではない「萌え」対象に、「萌え」というコードを受容する/援用することによって萌えることができるという循環機能を持つのだけど、エロスとはある意味そういうものでもあるのだが。
問題はそうした「コード」を受容するまでの間に、コードを「異物」として認識しないまま、コードの海に溺れてゆくという心性は、単に情報に流されるなと警告を発することでは片づけられない問題ではないかと思うのだが、根本に不安と不全感に覆われてしまってる状況に対して、どのような打つ手も見つからない/見つかりにくいということなんだろうなあと思うけど、なに書いてるか分からないな。
あ、そうそう。半径1メートルの「知ってる」現実に拘泥するしか生き残る道はないんでありませうか?という疑問でした。人ごとじゃない。