「黄色い薔薇」

 百合という花は死者と共にある。死者は動かぬ性器だ。
 死者に相応しい花は白百合であり、有名な写真や絵画に裏付けられたようにそれは女性器に模される。ならば、死者は百合を介して性器でもある。
 見る、愛玩される、手で触れ、芳香を嗅ぐ。一連のその花という植物の生殖器に対する行為は、極めて男性的な情動の発露によってなされるのだから、男性であろうが女性であろうが、花を愛でるという行為は男根的なセクシュアリティに基づいているのだ。
 香織が由梨に語った思想は、由梨にとっては不快だった。どこでそんな酷い話を拾ってきたのだろう。そこが三笠会館のティールームでなく部屋で語られたのであれば、大声で問いつめただろう。
 香織はキッと引かれた唇をちょっと開けて、由梨にだけに舌をちろちろと見せる。苺でも口にするようにヴァージニアスリムを含む。私が煙草嫌いなことを知ってる癖に、と由梨は思う。そんな口でキスなんてして欲しくないと由梨は思う。
 今日は遅くなるわ。
 由梨は分かり切ってることをわざわざいっていらいらさせる香織を憎んだ。どうみても化粧に気合いが入ってるし、お昼休みにお茶でもしない?といって由梨を学校から連れだしてケーキに誘う。高級感に溢れてコーヒー一杯がすんごく高いし、敷居を感じてしまってもじもじしてる私をあざ笑ってる香織は意地悪だ。どうせ男の子のところにでも行くんでしょ、もう帰ってこなくていいわと悪態でも吐きたくなるけど、そうしたところであの微笑みで返されて終わりだ。
 香織の煙草が一本終わるまでに由梨はコーヒを飲み終えてしまう。
 どうしてゆっくり優雅におしとやかに飲めないのだろう。隣の席のマダムたちが娘のピアノ教室の話をしている。月謝が高くてねえ。どこどこの先生はテレビにでてて愛人が三人ほどいて、それがねえ、あの○○の奥様なのよ。私、駅で見たの。二人で歩いてるところを見てた見た。みたいな噂をして、いつの間にかその駅前の和菓子屋の二代目の話に移っていた。
 香織はじっと由梨の表情をみているのがわかった。目が合わせると、その口紅、こないだあげたアナスイでしょ。え。そう。気に入ってるの。由梨ちゃんはかわいいなあ。でもちょっと合わなそうなんで返してと、冷たくのたまい、なんで男ができないのか不思議だといい、そこらへんのバーででも働いて男癖でもつけたらいいじゃないと続ける。
 いやよ。
 ひさしぶりだよね。由梨とお茶するのって。
 そうだよねと答えて由梨は憮然とする。結局こうして香織のペースに乗せられてしまうのだった。
 由梨もクラブ行けばいいのに、と香織は何千回も口にした。
 いやよ。人が多いの嫌い。と答えるのだったが、誰か他に相手を見つけろとほのめかしているのかも知れないと考えると、由梨は悲しくなる。だから余計に首を振ってクラブのパーティーには行くつもりはなかった。そんな理由でウザがられるのも嫌だった。カップルを作るのが当たり前なのか。作らないでもいい距離を保ったまま続いたりはしないだろうか。興味本位のまま友達に引っ張られて行ったオレンジ色のアパートのお夕食会で香織に会った。最初からおどおどする由梨の隣に座って、怖くないわとじっと語り明かしてゆっくりと触れてくれたのが始まりだった。その時はその時だけのことだと思った。でも違った。電話を貰ったときには嬉しくて涙がでた。
 何故香織は私を選んだのだろう。
 香織は私に比べてずっと経験豊かで、いろんなことに物怖じしない性格だ。私は香織に釣り合っているだろうか。香織の側にいていいのだろうかといつも不安になる。決して昼間、なにをしてるのか教えてくれないし、私が聞いても答えはなかった。一緒に住み始めても同じことだった。決まって一〇時に家をでる香織は私より遅く起きて遅く家に帰る。
 私は香織のカップに触れる唇が好きだ。煙草をつまむ指が好きだ。ショートの髪の後ろから覗く白いうなじが好きだ。小さな爪の足の指が好きだった。なにもなくても決して心を開いてくれなくても、香織をじっと見てるだけで私は幸せなのよと、由梨は思う。
 
 マッサージにいってきた。
 疲れたー。と帰宅した途端に香織はベッドに転がった。
 そっちは?と由梨に訊く。服についた煙草の臭いが気になったのだが、由梨は脳裏から追い払った。今日はゼラニウムの小さな小鉢を作ったと答え、高い月謝なのにケチだとくさす香織に冷えたビールを差しだす。
 ありがと。
 買ってきたELLEを紙袋から引っぱりだして、ほらほらヴィトンのね、特集よと買いもしないバッグを指さして、爪にきらきらと星が舞っているのを発見する。これね新しいネール屋さんでね、と香織は手を広げて左右に振り、とてもうれしそうに笑った。
 今度一緒に行こうね、という香織は昼間とは違い口調が優しい。
 遅く帰った夜はいつも機嫌がよい。由梨の胸に冷ややかな悲しみが去来し、それがそれからの行為への予兆として広がっていった。
 香織の唇に触れる。
 なによ。
 指先が彼女の前歯に挟まれる。
 彼女はそのまま「噛んで欲しい?」と訊いた。あんでほしい。ふんでほしい。とどれともつかない声だった。戯れにわたしは首を縦に振る。指先に鈍い力が加わる。このまま食い千切ってやる。いいわ。あなたに食べられてしまうなら本望。ぜんぶ食べて。
 じっと香織の目に射すくめられると由梨は全身に震えがくるような心もちになってくるのが怖くて、香織の口から指を引き剥がした。
 いくじなし。
 香織は吐き捨てた。あなたを殺人鬼にしたくないのと由梨は答え、きっと、美味しくないわ。でしょうね。きっと雌猫の味がするわ。見せて。もう食べたりしない。
 由梨が指を差しだすとそこには歯形が残って、皮膚にいびつな凹凸が浮き上がっていた。香織はいたずらっ子がたくらみを思いついた目で細め、由梨を上目遣いに見ながら指に舌を這わした。

 幸福感とも悲しみとも高揚感とも違う、と由梨は思う。
 ふるふるふるえるものなのか、よく漫画で使用されるキュンという擬音に近いのか分からない。シャワーからあがって、寝息をかきながら子供に戻った表情で眠る香織を見ながら、そうだ。閉め忘れた蛇口からぽたりぽたりと水滴が落ちる感じに似てるのだと思った。一滴一滴溜まってゆくその水滴は、時間が過ぎるのと同じように私の中に蓄積してゆく。
 わたしの中で充満した後、いつの間に消滅してるのか知らない間に流れだしてゆくのか判別もつかず、ただ、由梨は自分はその水滴なのだと感じるのだった。
 近くの幹線道路で、高速で駆け抜けたバイクの音が聞こえた。
 由梨は暗い部屋のベッド脇に腰を下ろして、スタンドの電気をつけた。一時を回ったところだった。明日は休みだからシーツを洗おう。料理を作ってあげよう。なんにしようかな、パスタにしようかな。二人でずっとベッドに居たいな。でも香織はどこかにでかけてしまうだろう。じっとしてられない。香織はそんな人だ。
 テーブルの脇に香料入りの蝋燭が転がっているのが由梨の目に入った。
 香織との最初の邂逅の夜に灯されていたラベンダーの蝋燭を、共同生活が始まった当初に買い、しばらくその香りを愉しんでいた。かぶっていた埃を取り払ってテーブルに置くと、たった三ヶ月ぐらい前に過ぎないのにそれが遠い思い出の気がした。
 もっと愛してあげたい。もっと愛してあげよう。もっと優しくしてあげようと、由梨は思う。

 道路のほうから大きな音がするのが聞こえた。
 機械と機械が豪勢にぶつかったみたいな音。事故だ、と思った。歩いて一分もかからない一番近い交差点は、交通事故が多発したが、事故現場を目撃したことはなかった。コンビニまでいってくるかと考えた。香織が眠るベッドに戻る気分ではなかった。部屋着に一枚羽織っていると声がした。
 なあに?
 香織がベッドの上に幽霊のように起きあがっていた。
 事故みたい。いく?
 二人が交差点に到着したときには、救急車の赤いランプと街灯に照らされて人影がいくつも見えた。夜中なのにどれほどの人間が起きているのだろう。人の背中を抜けて前にでると、ダンプに押しつぶされた軽自動車が見えた。白い救助隊員が何人か歪んた銀色の軽自動車のまわりを取り囲んでいる。遠くの方でダンプの運転者が警察に尋問を呆然と受けていた。
 即死? 香織が訊いた。
 わかんないと由梨は答えてるうちに消防車が到着し、握りつぶしたアルミホイルのような軽自動車のドアを取り除くために作業を開始しはじめるのだった。暗くてはっきりとは見えなかったが、ダンプのバンパーに食い込んだフロントガラスのあたりにぐったりとした人影が引きずりだされるのが見えた。壊れたマネキンみたいで、それは人ではなくまるで無機質なドラム缶に見えた。血は見えなかった。見えない分、流れだしたガソリンの匂いが血の香りにかわって鼻につんときた。香織が由梨の腕に腕を絡めた。
 いきましょ。
 その心細く発せられた声に、由梨は胸が震え、香織の手を握り返した。二人は言葉もなく静寂の夜を歩いた。なにをいえばいいのだろう。見るんじゃなかったと由梨は思う。そして、コンビ二のガラス戸を開けると、ほっとするのだった。
 
 ピアスを開けたいの。おヘソに。
 香織がそういいだしたときに、由梨は少なからず動揺していた。理由を訊くと冷たい調子で「別に」とかえってきた。香織におヘソのピアスは似合わないわと由梨が詰め寄ると、どうしてもしたいと肯んじなかった。
 小さな凹み。柔らかい胸から降りて行く途中にあるオアシス。螺旋を描きながら深くお腹の中に降りてゆく小さな洞窟。
 戯れに由梨が舌を差し込むとこそばしそうに身を捩って逃げる動きで決して逃げない香織の器官は、香織の弱い部分の一つであった。傷をつけてしまうのは惜しかった。
 かわいくない。
 そうかしら。でもいいの。わたしはしたいの。
 どうして。
 由梨とは違うのよ。由梨の形は決まってるの。
 形ってなに? 分からない。香織は変わりたいの?
 そうじゃない。そうじゃないけど。
 由梨には香織がまた分からなくなった。香織がいいのよと呟いたのを契機にその会話は終わったが、どうしてよいか分からなくて泣きだしたときには、香織は頭を撫でてくれたのだった。そして由梨はかわいいかわいいと耳元で囁いた。
 かわいいと好きな人にいって貰う瞬間はもちろん至福だ。
 だが、そのかわいいと発言した言葉がどこから生まれたのを吟味し始めた途端にそれは苦痛に変わる。以前、香織にその話をしたときには香織は例の調子でどこから聞いてきたのか分からない自説を披露した。
 それはきっと、かわいいということでそのかわいいと呼ばれる対象を、手の届く範囲に支配したいからだと思う。かわいいか、かわいくないかを判別する主体は評価基準の女王様であり、かわいいを共有することは、極めて政治的な行動なのよ。
 きっと香織はそんなイカサマフェミニストのような話をしたことなど忘れてしまったのだ。イカサマだと分かっていても、胸にちくりと針が残ってる。形が決まっているなんて言い方が不満で、好みは好みで仕方なく、揺れて揺れて自分でも制御できないほどに想いが溢れて、ばらばらになって、訳が分からなくて、とても自分が小さな、なんにもない人間に感じて、こらえ切れなくて涙するのにと、頭を撫でられながらよけい由梨の胸に悲しさがつのった。
 香織に突き飛ばされた後に再び引き寄せられて抱かれる。シャガールのような飛翔感もクリムトのような一体感もなく、ただ、私は香織の手のひらに愛撫されているだけに過ぎないのかも知れないと由梨は思い、きっと香織は誰かに恋をしてしまったのだと責めたい言葉は口にだすと本当のことになってしまいそうで更に喉に詰まった。

 もういいやと悲しさと悔しさにまみれて、インターネットの掲示板を探した。

・バリタチの由佳です。25歳。可愛い子猫ちゃんを求めます。
・香奈で〜す。リバネコだけどどっちかというとニュートラルに近いので、あなたの色に染めてください。
・15のトモちゃんです。ガッコじゃあ可愛い子居なくてここに書き込みさせてもらいましたー。チュッ!LoveLoveください!
 
 そんな言葉を見ているうちに由梨は彼女たちの天真爛漫さに絶望的な気分に陥り、自分はネコでもタチでもなくて、そんな言葉じゃなくて、もっと違う、ただただ香織が欲しいのだと思う。肉欲と愛情が入り交じった対象が限定されたある種の想い。そんな風な言葉に分けてしまったら自分は分裂してしまうと感じて、それでも堂々とした彼女たちが羨ましかった。
 香織はそれから数日の間、帰宅することはなかった。
 やっと帰ってきたらなにもいわず、開けたピアスを見せた。
 開けちゃった。
 もう由梨は反論する気分ではなく香織は詮索されるのが嫌いだから、帰ってこなくて振られたかと思ったのよと伝えた。香織は笑って携帯に電話でもすればいいじゃないと由梨の頭を撫で、学校から貰ってきて生けた花瓶の黄色の薔薇を一本引き抜いた。由梨がトゲがあるよというと、花を摘んで笞のように振るい、由梨の腕を引っ掻いた。掠れた小さな傷に唇をつけ、ごめんね、といいつつ舐めた。
 数日振りの由梨のセックスは情熱的で、由梨は何度も何度も淋しかったと呟き、香織もそれに答えてわたしもわたしもと由梨を愛しあった。
 軽い疲労感と陶酔の余韻の中で、香織のヘソをつなげた丸い輪を舌先で触ると、だめ。まだ開けたばかりなんだから、と軽く由梨の頭を叩く。由梨はそれが嬉しく、もうどこかに消えてしまったりしないでと懇願した。
 ばかね。あなたって。そんなにピアスが気になるのなら、あなたの鼻に開けてあげようか。そして私はひもを結んで引っ張って歩くの。わたしのかわいい雌牛です、って。
 うしー? わたし太った?
 ちがうわよ。ばか。由梨は全裸で、街を歩くと男たちが股間を持ち上げてて、わたしはいいよ、やっても、というの。
 ひどい。
 でもやらせてあげないの。由梨はわたしの由梨だから。
 ひどい。
 どっちが。と香織は笑っていった。
 手が荒れてる。
 香織は由梨の手を取って花を弄るからねと慰め、そうだ、こないだのアナスイ返してね。そのかわり別のものあげると、ベッドから降りてバスルームに誘った。鏡の前に立つと香織のプロポーションと見比べてしまって改めて気後れするのだが、明るい場所で香織の背中を見るのは新鮮なのだ。ポーチを探るために俯いた背骨が愛おしい。この背骨なら一生を渡してもいい。
 これこれ。
 この化粧水つけると肌がびっくりするくらいしっとりするよ。
 と、由梨に勧め、確かめてみるとすごく違うような気がするのだった。
 現金だけど気分がよくなりもっともっとと急かすと、シャネルのファンデーションで、下地は高くてもちゃんとしたのがいいの。
 マジョマジョは可愛いけど、わたしはアナスイ。化粧してあげるねと、美容液、乳液、ファンデーションをし、眉を描いてシャドウをつけて、アイラインをしてマスカラをし、口紅も香織が使ってる原色に近いものを引く。
 鏡の中に別人が生まれてくる感触に胸が震え、由梨は自分ではなく香織が増殖してゆく感じを受け、実際香織の作業が終わると姉妹みたいだと思う。
 由梨の方が半年おねえさんなんだけどね。
 香織は由梨にキスをして、いやだ自分とキスしてるみたいと笑う。鏡の由梨は香織の一部なのだと思い、嬉しいような悲しいようなそれでいてまるで違った自分の顔に驚くのだった。
 そのまま鏡の前で由梨が求めると、香織は口紅でメス牛と由梨のお腹に書いた。
 おかしいと笑う。由梨も負けじと香織のお腹にタチ犬と書いて口紅で大陰唇の周りを塗ってやろうと苦心するが、ばかばかと香織がふざけて逃げるので追いかけ、ベッドに逃げた香織に覆い被さって、冗談めかして首を絞めながら、ずっと一緒よ、という。
 脅迫してるの?
 うん。
 いいわ。死にたくないから一緒にいてあげる。
 香織は憎まれ口調でそう答えて舌を絡めた。本当に本当にそうであって欲しいと由梨は思い、この時間が永遠に続けばいいのだ。もし香織とこの先、一緒に居られないことになろうとそれでもいい。いつまでもいつまでも香織のことだけを想っていたいと考えていた。
 


(040730)