「ブコウスキーになりたい」

町でいちばんの美女


 駅前のマンションに行けばなんらかの仕事が貰えた。イイダという男がそのマンションの近くにいて、紙袋を渡す。それを指定された場所に持って行けばお金をくれるはずだった。ちょっとしたアルバイトよりはずっと金額が高いので重宝した。
 アロハシャツとパナマ帽という古めかしいヤンキーな格好でイイダはズボンのポケットに両手を入れてうろつき回っていた。駅の反対側は繁華街があるので、マンションの住民たちは特別そのような男に不審はいだかないのか、早朝の寝ぼけたサラリーマンたちは昨夜のバーでひっかけた女のオマンコでも思い出してるのか、それとも人生にうんざりしているのか男には見向きもしなかった。
 花沢という男から行けば分かると電話で言われ接触したのが最初だった。
 確かに男の様子はドブネズミ色のサラリーマンの中で見ると異世界からの訪問者のような違和感があった。だが男は全く気にしないようで、じっと手にした競馬新聞を見ているのだった。
「電話を受けたミノワです」というと、男はサングラスを上げて細い目を晒してミノワの表情を見た。そして紙袋を渡した。結構重たかった。見るなよとミノワの手を止めて、見たら死ぬことになる、とぶっきらぼうに言った。
「住所を言うから復唱して覚えろ。メモるな」
 男に従って覚えたが、一時間もすれば忘れてしまうだろう。なにせ今年の夏は暑いのだ。既に額に汗が溢れてきているのだった。
 薄っぺらい唇だった。煙草はラーク。終わったらさっさと行け。見るなよ。捕まるなよと付け加える言葉もまるで決まり文句のようだった。
 ミノワは電車に乗って腰掛けると紙袋を開けて見る。すると再び茶色の紙袋に包まれていて、その中にリボンのついた白いボックスが見えた。リボンを解くのはヤバイだろうと判断したミノワは諦めて、捕まらなければ大丈夫だと心を静めた。

 金が大事だった。なにより金だった。喰ってゆくのもオマンコするのも金だ。ビールを飲むのも金だし、馬券も金がないと買うことができない。
「3-6がいいんじゃねーの?」
 昨夜のナベっちの言葉が浮かんで、3-6じゃねーよ、きっと2-4がくるだろうとひとりごちる。誰かが新聞を編み籠に置いていたのを手にとって、もう一度出走表を見るが、どうしても2-4だろうと思う。帰りに馬券場に買いに行けるかと考え、時計を見たが、なんとかなるだろうと算段する。街へ向かう電車ではなく田舎の方に向かって電車は走った。窓からの風景からビルが消え、住宅地が広がり、やがて水田が多くなった。懐かしいなどと考えるとは予想外だった。もう一度復唱し、その街に向かうのは数年振りだと考えた。当時は金本という女がいた。居たというより、アパートの隣に住んでいた女だった。ある朝、玄関のドアをぶん殴る音があまりにも酷かったので、出てみると、若い男が隣の部屋のドアを叫びながら叩いていた。
「てめー。出てこいよ。おめー逃げてんじゃねえよ。おい文子!」
 男は学生ぐらいだろうか。きっと「痴情の縺れ」ってやつだろう。うるせぇ、とドアの内側から叩いたが、男は鳴りやめなかった。あまりに酷いので、ミノワが再びうるせーと出て行くと、男はミノワに飛びかかってきた。お前、文子の男か。新しい男か。と胸ぐらを鷲掴みにするので、知らねえと男を殴ってひっくり返した。だが男はしつこく殴りつけるので、ミノワは仕返し男がくたばったところで警察を呼んだ。戻ってみると男の姿はなかった。

 中年の男が座席で居眠りをしていた。なべっちが15年ぐらい経ったらそんなおっさんになるだろうと思えるほど似ていた。手にはやはり競馬新聞だった。一攫千金を狙ってるのだろう。くだらない。
 なべっちは旧友だった。中学生の頃によく遊んだ仲で、街にでて偶然再会した。駅の出口で煙草を吸っていると誰かが声をかけた。なんだよと振り向いたらなべっちだった。更に偶然にも近くに住んでいることが判明して、行ったり来たりしていた。
 やつは少々おかしかった。電話がかかってくるんだと言った。ミノワは電話を見た。ふつうのどってこともない量販店で安売りしてるような電話だった。よお。最近競馬には勝ったかい。おまんこしたかい。昨日吐いただろう。なんてことをいう電話で、親父ほどの年齢の男だそうだ。
 誰だよ。
 チャールズ・ブコウスキー
 ミノワは呆れてそれ以上のことは聞かなかったが、きっと今でも電話はかかってくるだろう。携帯電話を嫌ってたのがやつの悪いところだ。携帯は混線するかもしれないのだから怖くて使えないと言っていたのが災いしたのだろう。きっと今でもかかってきてるのだとミノワは考えた。あ、そうだ。とミノワはポケットを探った。数度のコールの後におずおずと電話にでた。当然番号非表示だ。
「おう。久しぶりだな。元気でやってるかな」
 ミノワは鼻を摘んで喋った。
「だ、誰です?」
「おめー俺を忘れたのか?アホが。ブコウスキーだよブコウスキー
「で、でも声が違うみたいで」
「おう。しばらく入院してたんだよ。癌で喉をやられちまってな」
 しばしの絶句の後に、なべっちはご愁傷様ですといった。
「くだらねえよなあ。俺はただ糞みたいなものを書いたら、馬鹿みたいに受けちまってさ。酒が飲みたいのにバーに行けばブク。ブク。って囃し立てられてさ」
「でも、儲かったのでしょ」
「馬鹿みたいに儲かったぜ。おう。お前こないだまた書いたんだってな。なかなか良かったよ。あの女教師の尻がプルプル震えるなんて部分はな。後は糞ばっかりだったがな」
「そ、そうですか」
 なべっちの声はトーンを落とした。糞なものは糞だった。ミノワが見ても糞だった。きっとその誰だか分からないブコウスキーというヤツが見ても糞だと思うだろう。
「まあ、なんだっていいんだ。頑張りな。糞は糞でも哲学を誘発するもんだ。哲学は糞に始まって糞に終わる。分かるよな」
「は、はい。ブコウスキーさんもがんばってください」
「お前、菊花賞、どれがくると思う?」
「2−6」
「まさか。おれは4−7だな。馬を見ろ」
「馬ですか?」
「ああ。馬を見ればそれが勝か負けるか分かるってもんよ。まあいいさ。頑張りな」
「は、はい。ブコウスキーさんもがんばってください」
「阿呆が。おれはもう死んでるんだよ」
 言い捨てて電話を切った。きっと次に会った時には目を輝かせてブコウスキーの話をするだろう。いや、陰鬱な表情なのかもしれないなとミノワは考えた。

 文子はセックスが好きな女だった。やろうというとやってくれた。というよりやろうと持ちかけてくるのは決まって文子だった。昼間は何をやってるのか分からなかったが、夕方かえってくるなり、玄関を開けて、ねえ、と迫った。もちろん一日中ぐうたら寝てたミノワは応じたが6時から初めて12時ぐらいまでずっとベッドの中でテレビをつけながらやったりした。アイドルがクイズ番組で難しそうな顔をして答えを間違うのをまるで別の世界の映像のように見ながら、アフリカの飢饉の様子を見ながら、飛行機事故の映像を見ながらやった。みのもんたが映ってる時に射精してうんざりした時だってあった。どうでもいい。そんなことはもう。腹が減って近くのファミレスで食事をしたりしてたものだったから、金はあっという間に減った。バイトは時々してたので困ることはなかったが、お金はなかった。いい尻の形の二つ年上の女だった
 ゴムに空気を吹き込んで手で跳ねさせながら「わたしお金が貯まったらハワイにお店を持ちたいの」
「ハワイ?なんで?」
「なんとなく。ハワイに花屋を開くの。フラワーショップ・フミコ。ちゃんとお店の名前も決めてるのよ」
「花屋か。花が好きなの?」
「ううん。別に」
 変な女だった。
「そしてね。豚ちゃんを飼うの。ピギーよ。名前は」
 それからピギーの冒険たんを話し始めるのだった。ピギーは千葉の牧場に住んでいて、仲間の豚の花子と喧嘩別れして旅に出るのだった。高速道路を渡る時はとても怖くて、昼間はとてもとても恐ろしくて渡れないので夜中におずおずと何日もかかってひとつの道路を渡るのね。ほら、豚って繊細な生き物でしょ? だから食べ物が見つからなくても我慢して、自分は他の豚とは違うんだと思って、決してゴミなんかあさったりしないのね。ずっとずっと長い間旅をして、わたしに出会うの。それはまん丸なお月様がでてる春の夜。桜の花がひらひら舞う夜。誰もいない、広い駐車場の真ん中で、どこにゆくのか迷って泣いてるのよ。きっとわたしは、それがピギーだって分かるの。直感するのね。だから呼ぶの。ピギーって。
 文子はそれでピギーに乗って旅をするのだそうだ。行き着く果ては海の向こうのハワイだそうだ。豚は犬とも猫とも違うのだそうだ。豚は豚だ。そりゃそうに決まってる。
 しかしながら惚れてしまったものは仕方がない。文子との生活をしばらく続けた街はだんだん近付き、逃れられないほどの距離になって、逃げられないと諦めた時には、もう駅のホームにいた。
 ミノワは競馬新聞を開いたまま寝ていたあの中年男にはきっと妻と子供がいるのだろう。競馬とは何かから逃れるために存在する競技で、酒から家庭から自身から夢から金から逃れるために走る馬に自分を仮託し、そして敗北する。絶望感に浸りながら頭を抱え、もう駄目だ。俺は駄目だと呟く。だがそうして絶望感に浸るまでの経過はこざっぱりした感覚を呼び起こして冴え冴えする。競馬は敗北するのが勝利であるという希有なギャンブルであるとうそぶき、苦い唾が溜まってくるのを感じる。
 駅前のビルはいつ建てられたのだろう。商店街は相変わらず賑わっていた。
 子供が数人ミノワの脇を通り抜けて脇道の角を曲がる。やはりゲームセンターに勢いよく駆け込んでゆくのが見えた。紙袋の端は折り曲げられ過ぎて折り目が緩くなっている。
 紙袋を脇に抱えて歩く。人々は飯を喰いセックスする。ピギーだって、豚の泥まみれの徒競走に負けて肉の塊になるのだろう。もしくは泥の中で雌豚の尻を抱えて突っ込んだりするのだ。
 目的地のビルはすぐに見つかった。繁華街のはずれのラブホテルが数件並んだ側にあるビルだった。内装は忘れてしまったがその場所に行ってみてずいぶん昔に使ったことがあるのだと記憶が蘇ってきた。近くの喫茶店で待っていて、金もないのに文子はタクシーで店の前にやってきて、タクシー代金を立て替えて、あれは返して貰っただろうか。金の切れ目が縁の切れ目。愛は金で買えるけど愛で金は買えない。
 ビルの指定のドアを叩くと、ゆっくりとドアが開いて、男が手で招いた。
 ミノワは驚いた。なべっちそっくりの男だった。
 着ている服や髪型は別人だが、目鼻立ちや顔の作りや体つき、態度は正反対だが表情などはそっくりに見えた。男は黙って包みを受け取る。
 ミノワは恐る恐る訊いた。
「兄弟とかいらっしゃいますか」
 男は目を細めた。
「なんだ?」
「あ、いえ。すごくよく似た人間を知ってるので」
 男は口を歪め蔑んだ目でミノワを見、「馬鹿かお前は」と言った。
「すみません」
 ミノワは慌てて頭を下げた。金をミノワの手に押し込んだ男はその場で包みを破いて開いた。
 中からは一冊の本が現れた。青い表紙にモノクロの写真。「町で一番の美女」だった。ミノワはあっと声をあげて男と本を比べて見た。
「お前、本は好きか?」
 男は訊いた。
「は、はい」と答えると、男は手にした本を振って「本なんか読むヤツは馬鹿に決まってる」と言ってにやりとした。目は鋭くミノワは心の底まで覗かれるような心地でどきりとした。
 商店街に戻るとミノワは訳なく汗が噴き出してくるのを覚えた。
 慌ててなべっちに電話をかけたが、兄弟も双子もいないという答えだった。もし偶然にも同じ顔の人間がこの世に存在する確率が計算できれば、いったいどのくらいになるだろうか。万馬券よりずっと高いだろう。似た顔の人間が存在するのは一体どれほどの偶然によってもたらされるのだろうか?この世には何人の人間が存在してるのだろうか。もし、偶然を確率で計算することができたなら、偶然は必然となる。だが、必然を計算する方法はない。もしかするとなべっちは嘘を吐いているのかもしれないし、あの男は自分の見間違えなのではないだろうか。もしかすると自分は偶然と必然をどこかで取り違えているのではないか。ミノワは混乱したまま自販機でビールを買うと誰かが割り込んで受け取り口に手を差し込んだ。
「あら、久しぶりじゃないの」と言ってビールを渡す女性は昔のままの文子だ。


(040822)