美少女ゲームてラブコメだったんだよなあ。。。

もえー

美少女ゲームの臨界点>を読んで。
美少女ゲームは、恋愛というドラマを通じて、プレイヤーに自らの責任や主体性というものを擬似的に体験させ、「わたしとしてのリアリティ」を提供するジャンルと共に、「女の子の内面に<可傷性>を見出し、そのような形で自分の暴力性に気づいた男の子」が、「そのような抑圧をエロゲー(=攻撃可能なキャラ)というお約束ごとによって解除し、安心して「凌辱の視線」をさまよわせることを保証する」ジャンル>(サカキバラゴウ)

<それはきっと、かわいいということでそのかわいいと呼ばれる対象を、手の届く範囲に支配したいからだと思う。かわいいか、かわいくないかを判別する主体は評価基準の女王様であり、かわいいを共有することは、極めて政治的な行動なのよ。>

<そうしたゲーム性(クリック性 表情の変化)によって「美少女ゲーム」というジャンルは誕生し>た<そしてこのとき、ポルノグラフィーとしての美少女ゲームも大きく変質した。ポルノ描写の地位が主から従へ移行したのだ。><ゲームの面白さを主に感じる部分が、フルサイズのCGが表示されているイベントシーンではなくて、立ちキャラと背景が表示されている日常シーンへと移行したのだ。>(元長柾木

<19997年の「To Heart」から1999年の「Kanon」までの短い期間で、美少女ゲームのキャラクターは現実の女性と隔絶するという方向でオタク男子向けに萌え要素の最適化とカスタマイズが行われ、零落したマッチョイズムと少女幻想が融合した「乙女ちっくイデオロギー」の楽園を構築してしまった。><その結果がもう一つの方向性─「マリア様がみてる」に象徴される「百合」という概念の発見である。>(更科修一郎

うーん。「百合」の発見はもっと消費経済に近いところからの発見でもあるんだと思うんだけど。それはオタクという概念ではなくて、日本の商品の消費生活構造自体に背景があるように思える。
かつて「百合」という言葉がもつイメージは、もっとどろどろした影を背負ってたように感じるし、実際「百合姉妹」という言葉のポルノグラフィックイメージはもっとイヤらしいエロスがあった。
でもその「百合」というイメージからエロスを排除し、「萌え」をその代わりに導入したのは、中流幻想が崩れた90年代以降の反面教師としてのバトルロワイヤル的な「生存」という原則に裏打ちされた、「どっちが強いか(生理学的ではなくて情報において)」のようなある種政治的な価値もあるのではないかと思って、<極めて政治的な行動なのよ>と書いたんだよな。確か。「可愛い」「萌え」という言葉はその発言者の場所を保護する武装なのであり、「可愛い」「萌え」というのは自己認識としての保守と共時的な関係にあるのではないか。その共時的というのは消費生活であり日常の世界をどう肯定してゆくか/誤読してゆくか/消費されてゆくかという社会生活論の問題でもあるのではないか?いやもしかするとラブコメちっくな感覚でしか男女関係を認識できないという受動者、すなわち我々が行きる<関係性/共時性>の問題でもある。とする。
たとえばそれを「零落したマッチョ」としたとしても、母系社会の日本で果たしてマッチョという言葉が適合するのかどうか。マッチョというのは後から設置された概念で、家父長制度は保守でありながらそれはタテマエとしての表だったのではないか。ならば萌えと可愛いの母系社会というのは、巨大な羊水でもあるのではないか。男たちはその羊水の中で自慰をし精子を垂れ流すのである。あ、いや、違うな。垂れ流すのではなく、受け止めるのはコットン100%だ。実を成すことをここでも回避するのだ。